ほっこり☺ まち協日和
こんにちは。魚住まちづくり協議会です。
今日は阪神淡路大震災の発生から30年の日です。
震災で亡くなった方を悼み、黙祷
今回のまち協日和は事務局の女子4人が当時を振り返り、震災を忘れないために語り継ぐことにしました。
30年前は住んでいるところも違えば、社会人だったり、学生だったり…
それぞれがその時、感じたことや、困ったことなどを書き綴っていきます。
このブログを読んで、当時のつらい思いを思い出してしまう方もいらっしゃるかもしれません。ご容赦ください。
K3の震災
K3は当時、兵庫県の中部、西脇市に住んでいた。のどかな田舎である。
結婚もまだしておらず、バリバリの社会人で、実家で父、母と暮らしていた。
そのころ、インフルエンザが流行っていたのをおぼえている。
なぜなら、姉の旦那さんが罹患しており、妊婦の姉に移ってはいけないと前日(1月16日)のお昼ごろから実家にもどってきていたからだ。姉は2歳になる娘と一緒に帰ってきており、私は会社から帰ると姪っ子の面倒を見ていた。
いつもなら2階の自室で寝るところなのだったが、姪っ子が「K3と一緒にねんねする~」と駄々をこね、1階の和室で姉と一緒に寝た。その隣の部屋では父母が寝ていた。
姪っ子と一緒にいつもより早めに床についた。
1月17日の朝、5時頃、いつもは吠えない外飼いの犬2匹がめずらしく大きく遠吠えをした。
それで、目が覚めた。「どうしたんやろ?」と思いながら様子を見に行ったが、何も変わったことがない。おかしいなぁと思いつつ、再び寝床に入った。姪っ子も起きてしまっていた。
「さぁ、まだ早いからもう一回寝よか」と声をかけ姪っ子の背中とトントンとたたきながら自身もうつらうつらし始めたころ…床下から何ともたとえようのないそして今まで聞いたことも無い「ゴゴゴゴゴゴォ~」という不気味な音をきいた。そしてまた今度は激しく犬たちが吠え始めたその瞬間、激しい揺れがきた。いつもと違う今まで経験したことがない激しい揺れだった。そして、長い時間(実際はそうでもなかったのかもしれないが…)揺れが続いていた。
とっさに姪っ子を布団に包んだ。隣の部屋からドスンという重い音が響いた。
次に「○○子、姪っ子、K3、大丈夫かぁ?」の声が飛んできた。
「大丈夫や!」「お父ちゃん、お母ちゃんも大丈夫か?」お互いの安全を確認した。
幸い、何もない和室に寝ていたK3姉妹と姪っ子。一方、隣の部屋で寝ていた父母の部屋は箪笥と仏壇がたおれた。これまた幸いに倒れた箪笥と仏壇は父母の寝床をつぶさないように倒れていた。
「余震がくるかもしれへんから、ちっとま、そのままで居れよ」
どれくらい待ってただろうか、思い出せないが、落ち着き、ダイニングに行くと食器棚の開き扉が開いていて、食器が飛び出して床に散乱していた。
スリッパをはいて割れた食器を片づけた頃にテレビをつけたら、倒れた阪神高速の映像が流れていた。
我が家は、けが人もなく、食器が割れたくらいの被害だったので、いつものように会社に向かった。当時、勤めていたのは本社が大阪、東京に支店のある会社だった。
本社への電話がつながらない、東京の支店にはこちら(西脇)からはつながるが、東京からはつながらないという状況が続いた。ごたごたしていたが会社の業務は行っていた。
震災から10日後、甥っ子が生まれた。
ここで、困ったことが起こった。紙おむつが売ってないのだ。
流通が途絶えたこともあるが、物資供給が被災地最優先になっており、市場に出回らないのだ。
K3達は慌てて古い浴衣をほどいて布おむつをたくさん縫った。甥っ子のおむつは柄物の布おむつ。おしりをただれてさせてはいけないと、頻繁におむつを取り替えた。
洗濯と縫物をたくさんした。
K3は犬の遠吠えを聞くとあの揺れを思い出す。今でも「うわぁぁぁ」と思う。だけど、家族が揃っていたこともあってか、不思議と心細さを感じることはなかった。

Mの震災
Mは明石に嫁いできて生まれた長女がちょうど10カ月の日でした
朝のミルクの時間だったので抱っこしながら飲ませている時に
海の方から、でも地上ではなく地下の奥底から轟音とも唸りとも
何とも言えない嫌な音が近づいて来ました
気持ちが悪い音が自分の座っている真下に到達した瞬間に体が下から
突きあげられて大きな揺れを感じました
次の瞬間に大布団を頭に被った状態で私と娘の上に主人が飛んできました
なにがなにか分からない状態でいる私に「地震や、でかいわ、なんやこれ」と
3人で布団を被る状態で「長い、長すぎる、おさまらへん」主人に言うだけでした
本当に、本当に長く感じました
しかも、ご機嫌でミルクを飲んでいた娘は口から哺乳瓶が外れるので泣き始めました
泣く娘にミルクをあげないと揺れのなかで必死でした
考えたらおかしな話ですが、娘が、ミルクが、何なん、地震早く終わって、、、
頭の中がぐちゃぐちゃでした
後で主人は娘がミルクを飲めるように必死で布団がドーム見たいになるように
被ってたと話してました
お昼頃に県住の入り口に行くと東の方向、須磨の山の奥から黒い煙がもくもくと
上がっていました
何人かの集まっていたご近所の方たちが「長田の火事や、えらい事や~」と
呆然と話してました
県住の1階だったので食器棚の上にのせてたポットが下に落ちただけでしたが
子どもも3人に増え物も増えた数年後に震災があればと思うと今更ながらぞっとします
あの日から25年後、高校時代の旧友と淡路に行く機会がありました
野島断層保存館にぜひ行きたいと、京都や大阪の友達だったので行く
機会がないから一度見ておきたいと
以前に行った時とは随分変わってたのでゆっくり見学しました
阪神淡路大震災の時の揺れ方と東日本大震災との揺れ方が違うから
それぞれを体験できました
東日本大震災の後に阪神淡路大震災の揺れを体験した直後体が震えて
自分が気付かない内にぽろぽろ涙があふれ出してその場にいれませんでした
あの日の恐怖が一瞬に頭を包みました
あの日、そこまで被害があった訳ではない私ですらこんなに心の傷に
なってたのかと初めて感じました
だからこそ、震災を経験したことがあるからこそ、減災・防災の話を
その日の話しを機会があれば伝えていきたいと思います

K2の震災
30年前、3人家族だった私
夫は、その日から出張だったため始発に乗車していました。
途中で電車が脱線したため最寄り駅まで線路を歩き、実家に立ち寄り我が家に帰ってきたのは2日後でした。
私たちはというと
子どもと二人で呆然としながらもどうしたらいいのかと必死だったように思います。
突如、下から突き上げるような揺れ。
はじめはガタガタと揺れ、そのまま収まるのかと思えば次第にその揺れは大きくなり
色々なものが落ちる音が・・・
和室の照明のカバーが外れ飛びました。
本棚の本が落ち、その本のおかげでかろうじて本棚は倒れず傾いたままに。
食器棚は観音開きだった扉が開き、中の食器が飛び出し割れました。
キャスター付きのテレビ台は、部屋の真ん中ぐらいまで移動していました。
リビングの照明(ガラス製のカバー)がずっとゆらゆらと揺れいつかポッキと折れて落ちてくるのではないかと怖かったです。
キッチンでは電子レンジが床に落ち、ガス台の上にあったカレー入りの鍋も床に落ちカレーが散乱。
冷蔵庫が少し前へせり出ていました。
私たちがいた場所は、家具等を何も置いていない部屋だったのでそこから動くことが出来ませんでした。いつになったら収まるのか・・・とても長い時間に感じました。
今でも地震があると
この小さな揺れがこれからもっと大きくなっていくのではないかと毎回不安になります。
そして、家族に声をかけ何もない部屋へと身を寄せます。

職員Fの震災
当時は高校1年生の冬、私は実家の愛知県春日井市におりました。
他の皆さんとは違い、離れた地域から見たことを書かせていただきます。
まずは当日の私の記憶です。
当日の朝、私は地震の揺れで目が覚めました。わりと強めの横揺れを感じた気がします。
名古屋の震度は3だったそうですが、目が覚めるくらいですからもう少し震度は大きかったようにも思います。
おそらく、朝のニュースで、神戸で地震が起こったという一報は見たと思います。
そのあとは、普段通り学校へ行きました。まだ携帯電話も普及しておらず、流行好きの子がポケベルを持ち始めた時代で、昼間は何の情報も入ってきませんでした。
夕方、学校帰りに友達と喫茶店に寄り道しました。
お店にテレビがあり、そこで初めて、神戸の被害の様子を目にしました。
「えっ!⁉」
と2人で顔を見合わせて絶句したのを覚えています。
私の当日の記憶はこれだけです。あまりにも何もなさすぎて愕然としました。
私が無関心すぎたのか?不安になり、父にも当時のことを聞いてみました。
父の話
「まず、当日の朝、揺れで目が覚めた。コトコトという初期微動があったが、それが長く続いたことから、遠い地域で地震が起こっていることが予想された。(父は地学が専門)
それから、ドンという揺れが来た。遠い地域で起こった地震の場合、後から来る主要動は弱くなるものだが、この時の揺れは柱がギシギシときしむほど強く、遠いにもかかわらずこの揺れということは大変な規模の地震だと思った。
テレビをつけると、震度、マグニチュードなどの速報はすぐに出たが、現地からの情報は全く入ってこなかった。
折しも当日、大阪で日米の防災に関する会議が開催されるため、防災の専門家が集まっていた。その専門家がインタビューに答えているのを見たが、前年に起こった北海道東方沖地震のマグニチュード(M8.1)や被害状況(北海道内での死者ゼロ)を引き合いに出し、死者は数名、新幹線も午後には運転再開するのではと答えていた。
大阪にいる専門家でさえ被害の予測ができなかったのだから、それだけ現地からの情報が何も手に入らず、また誰も経験したことがない、予測できない事態だったということだ。」
実際、被害状況がひどすぎて現地からの情報がなかなか出て来ず、テレビなどで現地の状況が報道されるようになったのは当日の夕方ごろからだったのだそうです。
その話を聞いて、私が放課後まで何も知らなかったのも無理はなかったのかな、と合点がいきました。
その後、父は仕事で何度も現地に足を運んだと言っていました。
また、私は震災から3年後、進学のため神戸に来ました。
下宿の近くにも、ここに何か建物があったんだろうなという更地が残っていたり、公園のグラウンドのようなところに仮設住宅が建っていたのを記憶しています。
大学生の中にも亡くなった方がいたというお話も聞きました。
所属したゼミで、長田で被災され、復興住宅に移り住まれた方(借り上げの公営住宅だったと思います)に聞き取り調査をする機会や、真野地区の事例を学ぶ機会もありました。
まちづくり先進地区である真野地区は、普段から地域の中で人と人とのつながりがしっかりしていたため、当日は住民が自主的に救助活動を行い、他の地区に比べて被害を少なく抑えることができた。
というのが非常に心に残っています。
その時は、30年後にまちづくり協議会で働くとはつゆも思っていませんでした。
でもご縁があって、ここで働かせていただいているので、過去の災害で被害にあわれた方々に思いを馳せながら、何かあった時にみんなで助け合えるまちづくりを目指していけたらと思っております。
だれひとり取り残さない、みんなにやさしくよりそうまち。
1人1人が自分にできることを考え、みんなの手で、つくっていけたらいいですね。
今日は大変な長文を読んでいただき、ありがとうございました😊
魚住まちづくり協議会
明石市の西部に位置し、長い歴史や文化残る歴史ある校区です。自然豊かな金ヶ崎公園やため池、田んぼなどが多くある地域です。そして美味しいキャベツ、レタス、ブロッコリー、スイートコーンなど米や野菜の農業も盛んです。
校区は16自治会で構成され、総人口は約12,700人(約5,700世帯)、面積は3,062㎢で、市内で4番目に広い小学校区です。
事務所所在地
魚住小学校区コミュニティ・センター
〒674-0074
明石市魚住町清水570 [魚住小コミセン]
TEL : 078-202-6495 FAX : 078-202-6495
E-mail : otoiawase@uozumimachikyo. com
休館日:毎週月曜日、国民の祝日、12/28〜1/4